理想が高くなりすぎている
1番大きな理由はネットによって画像を見すぎているから
自分の中で最も美しいあり方についてイメージの母数が多すぎてその中の一握りの奇跡を相手にしている
写真にしても映画にしても人間にしても
そういう選別をしてしまうことが自分がその母数に含まれた時にあまりに下部にいることに耐えられなくなる
同じ人間でありながら実体も掴めない無数の人間に遥かに劣っているということに非常にやるせなくなる
私は好戦的な人間であり、他者に勝利したいという欲望がある
そのために努めることが本来苦にならない、良くも悪くもそういう人間が、絶望的な気分になるのがこの状況。
例えば私はアイドルのファンになるのが嫌いです。
音楽やダンスやビジュアル等魅力的であればアイドルを好きになることはあるけど、その関係性を他人の関係と混同したくないのでファンという総体と自分を重ねるという行為は苦手。
ファンって何?!好きだしお金を出すことはあるけど、いいと思わない時も買ったりするわけじゃない。ファッションブランドとはそういう関係を築くのに、何故個の人間に対して、または人間のグループになると総称をつけるんだろう。。
というのも今はそういった「ファン」の中で他のグループとの差別化される「ファン」の呼称が続々と生まれているのでなんだそれと思う。
なぜ自分が主観を持って生きる世界で自分本位で居られなくならなくてはならないのかわからない
snsというのは一方的な関係を強固にさせるものだ。
一方通行の認知をフォローとしてフォロワーが多くフォローが少ないことが勝つという認識は不自然なことでない。(マリカーなどのゲームで置き換えると一位の人間は下位の人間が見えないことで不利益もある)
このインターネットありきの社会では自分が主役でいることが難しい
誰よりも優れているということが主役というわけではない
自分が圧倒的に劣ると感じる立派な人間のイメージに囲まれてしまうことが問題
人間や物が自分とあまりに違うとは優劣問わず思えないが、あまりに遠く感じるのがネットにうつるイメージであり、紛れもなくそれが画面でしかないからだ
画像人間と自分を比べて圧倒的に美化されたそれに劣る自分に苦しむ
(それに対する讃頌の量も価値観を作るデータになるだろう)
また、自分の作り出す物においても同じような比較を行ってしまう
批評を擁護する態度でいたが、実際はもうそれらは不可能なのかもしれない
あまりにも理不尽なのかもしれない
良し悪しに行きつかないように思考することはとても困難だ