2023/04/27

!?

もう4月後半…。

色々やったし忙しいけど、

今は昨日突然休みになったのにゴミみたいに使ってしまったり、旅先でフライトチケットに関するトラブルを事前に対処できなかったり、自分はダメダメだ〜!

という気持ち。

ダメ。

かなり悪い。

でも一歩引いてみて、他人として自分を見てしまうと、まあそういう時ってあるよねーと思ってしまう。

自分に優しい人は他人に優しい。

その逆も。

自分への優しさを他人に責めれないようにするのが自虐。

 

お菓子いっぱいたべちゃう。

イヤなことがあっても、この世界の未来を憂いても、結局またその場凌ぎの対処が必要になる。

 

・旅行先で予想できる悲しいトラブルは(チケット、お土産、日程組など)潰す

すごくめんどくさいのでやらない

他人はやらないのになんで私ばっかり、、という気持ちになる

→やらないと結局自分が苦労する

なんかしらで自分が辛い時助けてもらえるよう、できる能力は発揮する

・aiがどうたらこうたら→面白いものがみたいだけならaiにやらせろ→作る喜びを忘れるな

・太っちゃった→お菓子たべすぎた→他のことを優先しよう→冷静になろう→食べると太ります→太ると太ももがすれたり、お腹が見える服を着た時にとてもおちこみます。→やめよう

・やるべきことを後回しにしてしまう→やるべきことを具体的に明確化する時間が必要→通勤時間等→5秒ルール

2023/02/28

どういうことなんでしょうか?

なんだか制約が多すぎる課題をやるので気が重い。

課題なんてテキトーでいいという人の気持ちが想像できて萎える。

 

最近の楽しみは殺し屋1を読むことです

やはり漫画の良さ=キャラクターの良さに感じてしまう(ゲームも映画も)

これはにわとりが先か…というものかもしれないけど、これによって絵が好きでない恋愛シミュレーションゲームにハマることもある

キャラクターの良さとはなんなのか?

想像できる範囲の行動や言動しかしないと嫌いになる

他のキャラクターが踏み台にしかなってないものはキャラクターではなく作者が現れてしまう

作者の分身の幅が重要

 

テンポがつかれる作品もある

言葉の使い方やオノマトペの料が影響する

顔だけ漫画とかもこういう問題かも

空間的な想像力が働く漫画はすごい

彼らが生きている街や生活の延長まで想像させるものは特に素晴らしい

 

 

 

2023/02/25

色んなことがあり、ただ時間がほしいが、それはルール違反なので、いわないように

幸福な人間なので不幸な人間の気持ちはわからない

私がそうなり違う立場の状態になることも容易に想像ができる

過去に不幸な気分になっている状態はある

そんな時に立場が違う人間のことがわからないと発言するとか、立場が違う人間だからわからないのだと他人に言われることも全く意味がない

私の感想であり、貴方の感想である

その感想を語ることのできる場は殆どない

無意味である、寧ろ他人を不愉快にさせる、生産性がない

そういったものの価値はその価値を否定しないという場面の中では価値がある

それに価値をつけることがその場面の価値だから

そういう価値を持つ人間は基本的に他の価値に安全を担保されている

貴族の優雅な御戯

そういう人間がメディアに出す情報で庶民は現状に価値をつける

貴族が認めている状態として

結局全てが飽和してしまうよりかは勝敗をつけたり何かの正義感に追われている方が奇妙な生物になることができる

人間の中で最も生き延びることのできる価値観を待ち、強い肉体、精神性をもつ、

んですかね?

2023/02/16

全てに感謝

って言えるほど生きるのが楽しい

特別なことはないが、働いてないからかな?

学校に求めているような超exciting人間関係が築けているわけでもなく

でも単純に技術を学び物を作るのが楽しすぎるー

ほぼ今月中にサイト関係完成させたいなー

就活するわけでもなく無関係の職種につく割には負けず嫌いとプライドの高さでやっていってます。ね

 

私の場合生きててつまんねー!!ってなってた時は何故だろう?

欲しい物が手に入らなすぎたかな

自分が何にもできなく感じて、どこに向かえばいいかもわからなかったのかな?

今考えるとやるべきことなんていつでもずっとあるし頑張らない状態でいかにしょぼくれたクソ人間になり社会的に雑な扱いを受けて(いる気分になることで)もうあの状態に戻るのだけは怖すぎると思う。

なんだかつまんなそうに生きていたらどうしたらいいのかわからない。

やらないとわからないし果報は寝ててもこねーんだけど。

寝るのが果報な人にとってはどーしようもないのかな。

 

今思うとマーケティングとか言ってもりおかつよしの話聞いてるの怖いけど。

なりたゆうすけの話見るようになってしまった。

 

2023/02/09

日記です。

久々に!

気づけば訓練校の感情記録はとめてしまった

友人ができるにつれ精神的に生々しく具体性の強い感情が増えて公開するような記録に残したいものではなくなってしまった。

友人関係でわかったことは面白優先で適当に他人にノると派閥争いに巻き込まれるので仲良くなった人にも距離を置き続ける重要性。。

ある程度信頼できる関係になったら雑な会話をせず「それってどういうこと?」と本意をちゃんときくこと大事。

毎日違う服の組み合わせにチャレンジしてメイクも頑張って、楽しかった!

でも服の悩みはずっと尽きなくて常に困ってる。それについてはまた別記事で。

 

最近はマーケティングやuiuxデザインについて興味が出て生きていく上で何かを意識的に制作して社会で生きるにはこういう知識がすげ〜大事だったんじゃんと脱帽しています。

どう考えても仕事で美術やってくなら大学で学ぶべきことだろ。

こんなことちょっと考えればわかるくせに社会が全く適応してないのでガチでムカついてきた。

(技術・教養・知識・戦略?)

 

 

アートをデザインする

「デザインとアートは違う。

デザインは答えで、アートは問いといいます。」

「デザインは人が伝えたいことがちゃんと伝わらなくてはならないが、アートは自己表現なので自由なのです!!」

「ねえ、私の父はアーティストでしたが、人にコンセプトが伝わるように考えて作っていました。それはデザインをしていたというのですか?」

「デザインは理論に基づいて行われるのです。誰に、どうコンセプトが伝わるように、何をしたのですか?それが説明できるならデザインと呼んでいいかもしれません。」

「ユーザーの目的をかなえるために行うのだ」

「それらを明確化できてないのであればデザインとしてはカス同然。」

「アートは自由なのでどんなものがあっても優劣はつけられない。」

「デザインはユーザーを設定したり選び出すことでそれを明らかにできるのです」

「アートはその表象(または視覚以外にとっての表象にあたるもの)が先立ってつくられて(または作らざるを得なくなり)結果的にキュレーションによってデザインされ他人に見せたて納得されたり金と交換されたりする。」

「自由であるがためにその順番は不問です」

「金と交換したり他人が納得しないものを価値づけられない時、逆転するものが増える」

「もしくは、無意識にデザインを真似たものばかりが増える。デザインは人間が好むために、有益であるために存在する。だから人間はデザインを真似ていく」

「デザインは真似されるためにある」

「デザインは不要なののが削ぎ落とされていく」

「不要なものだらけのアート」

「合理的でない 納得させられない」

 

デザインとアートを分類すること

期間や何か限定していない人間が作った言葉を正確な境界線を作ろうなんていうことはかなり無意味

中間にグラデーションがあるから…

では極部にはアートとしか言えないものというものが存在するのか?

和製英語としての二つに名詞と動詞として使われる量にかなり差があるから言語的にモヤモヤするんだね、

 

 

 

 

 

 

 

2023/01/22 ファッションの反省

 

トータルコーディネートを見て似たパーツの服をジェネリックに買っていたのであまりブランドにこだわらなかった

結果合わせる服がなすぎてこまることはなくなった

いろんな服装ができるようになった

(カジュアル、シック、スポーティ、クラシック、モードなど)

 

結果ものすごくこのアイテムが好き!

気に入ってる!

というものがあまり服にない

替えがきくものが多い

 

つまり今はディテールが雑になってるので、そのうち質の高いもので代用されていくといいなーと思う。

楽しいなー。服もメイクも。。

 

自己分析をしていきたい

どんなものが似合うのか、

 

クンタ氏がいう自分を知っている人、

という考え方はどのような服が自分に合うか、という服によって己を知るということができる

服によって導かれるという考え方。

美しい形・色の組み合わせを俯瞰して確認するタームが重要。

モーガン氏の似合わなくても好きなものを選ぶということは意思表明・主張をするという喜びです。

どっちもいいだなー。

 

以前から気になっていたワード「カルチャー感」に対して意見がまとまったんで聞いてください。

クンタ氏の考え方は今回も「自分を知ってる人」と述べた点からも俯瞰して「この形は美しいか」「トータルバランスは良いか」といったことを重視してコーデを組んでいると思います。

「カルチャー感」とは安野モヨコ美人画報で述べていた「全身ビビアンの子が服は可愛いのに東京で浮いていて良くなかった」と感じとった時の感覚だと思います。

「カルチャー感」が出ることはなぜ否定されるのか?

その服が作られた時に使われたカルチャーを自分のものに落とし込めていないから。
カルチャー(文化)は結果的に政治性など主義主張、意味を持つものです。
表面的であるほどカルチャー感がそのまま剥き出しになりリアルでなくなるということです。
「服に着られる」という表現は一般的に体型が合ってない、服以外のパーツ(顔や髪型など)が合っていない時に使用されますが、カルチャーにのまれてしまうという状態にも形容されているのかもしれない。

 

カルチャーを理解することで合わせ方がわかる。

コラージュと一緒。

コラージュを評価する時にはそういった文化背景やソースの合わせ方が鍵になるわけだから。

料理などにも言えることかもしれない。

 

あークンタさんと普通に会話してみたいーー。

友達になりたいーー。