2022/08/06

なんとなくトゥイタ〜にイラストをあげてみた

あんまり真面目に描いてるわけじゃなく手癖絵お恥ずかしいけど色々公開することに慎重になりすぎてもおいっか〜みたいな気分で

本当に自分は強欲で放漫なんだよなあ〜

他人にsnsでイラストを公開するメリットってなくね?って心底思うから抵抗感があるのは本当だがども(←だけどもの友人)。

がんばって作ったものを手軽に消費できるドブみたいなとこに流すメリットなんて存在の広告でしかないじゃない〜

私はフォロワん増やしてイラストの仕事がしたいの?

そんなら無断転載対策とかも視野に入れるべきだと思うけど何もしてないし

真剣にフォロワを増やす努力をしなければいろんな人に見てもらうことも結局はできんし

まずあんまりTwitterが好きじゃないのにやるのも矛盾してて辛いしな

 

絵を描くの楽しいんだよね…

好きな線とか色を探りながら過ごす時間が好きだよ…

ピタっと気持ちよくハマる瞬間があってアイデアをだしながらなかなか完成しない絵をコネコネするのたのしいよ

 

昔から作ったものを捨てたり潰したりするのをやってしまうしデジタルのイラストなんて自分でもどっかやってしまう

 

そしたら、まるで自分にそれがなかったみたいになる

記憶も夢か現実か捏造か曖昧だし

 

私に見えている社会で生きてると常に未来を前提し、アーカイブが最も課題になる

 

まあ自分にとっての未来ってのは長くてあと60年くらいだからそんなにいちいち困らなくてもいいのかもしれないけど

 

うーん、、

 

大学を出てから労働をメインに生きて、作品を作るということへの意識が変わった

というか、大学を終えるに近づいて変化していたのだけど、

 

会社に所属し、人の下につき、伝統に学び技術を習得し、お金を稼いで徐々に豊かな生活を手に入れてきたところで、満たされない欲を感じ取って会社を辞めた。

その欲のひとつは同じ生活を3年程したら違う生活をしてみたくなったということだと思う。

労働生活の中では自分が思いついたものを実行する時間や体力、モチベーションが持てなかった。

私の「思いついたもの」というのは「芸術家にとっての作品」なのだろうか?

 

そもそも作品とは何なのか?

作品というものは今や歴史や美術館、博物館に残るためのものという意識は色濃くみえる。

私が食事をした後のソースの跡や他人と交わす言葉が作品じゃないのならそうなんだろうな。

作品ってつまり自称するもので、屋号を出す時に飲食店やら小売店やらのカテゴリー登録が必要なように、分類せざるを得なかったためにあると思っている。

だから私の「思いついたもの」は物質的に不在であり計画を公開していない=他人に認知できない=作品ではない。

私の「思いついたもの」はこれから作品になろうとしているのだろうか?

今日寝るためのお布団を整える、洗濯をする、食器を洗う、料理をする、食品で食器を汚す、包装紙をゴミ袋に入れる、服を着る、人と会話をする、音楽をかける、物を買う

私が生活を行う全てに私のアイデアが含まれるもしくは考えずに習慣化した活動をする。

そういう活動全てが他人に公開し作品を自称することで作品に変わるとしたら、思いついた何かを作ればそれは生活の産物の一部だ。

人間の生活を決めるのは欲望だとして。

私にとってイラストをぼんやり手癖で書いて特に誰に見せるでもなく作る時はかなり生活だな。

その生活の産物に需要が見つかったら仕事や作品にするのかもしれない。

【→サラリーマンを辞めるにはこれを仕事にする必要があるから需要を見つけるために広告を出す必要がある。】

まずは生活にすることにしよう。

やりたいことを生活に取り入れてみよう。。

そして今年は広告を出す必要がある。

 

今、広告を出す時の私の心境はやりたくないことをしているので生活を侵されてしまう。

でもきっと広告を楽しめる方法があるはず

名前を変えるとか、事務的な情報のみで思考は出さないとか。。

とりあえずトゥイターに絶対気持ちをかくな!

ブログっちゅうのも考えもんやと最近は思ったけど、やっぱりひとつの思考道具として、ちょうどいい立ち位置のものではある。

いつかもっとサッパリと、見せるための文章だけ載せれるようになるといいけどねえ〜。

はあ、ちょっとすっきりした。