通勤の電車でブログをかきたい
と思ってまとまらなくて結局下書きが増えるばかり
今日のテーマは自殺です。
自殺ってよく伏字されるけどあんま言葉にしちゃいかんのかな。バンされるのかな。
自殺については覚えている限り小2の時から知っていた
何で覚えたかもわからないけど影響を受けたのは種村有菜著の漫画「満月を探して」。
親との喧嘩や癇癪によって「死んでやる!」と思い何度か包丁を持ってみたりしたけど、全然本気じゃなかったと思う。
でも別に自分に価値も感じられなかったから死ねればラッキーと思っていたか。
死の恐怖も、世界の広さや深さも知らなかったから、生きたいと思うことがなかった。
それからそんな感じでフワフワ生きてきたんだけど、中高時代はあまり自殺を考えなかった気がする、覚えてないだけかもしれないけど、今思うと一番死ぬべきだろっ笑て感じの人間だったのはその頃だけど。
当時の自分は全然面白くない漫画やアイドルに散財したりして意味不明だよ。よくいる気持ちの悪い餓鬼。
親と仲が悪い。良い友人はいた。
運動部で汗を流すのはよかった。先輩に屈服するのも。
先生に気に入られようとして醜い道化をして不正解ばかり出して。
つまり、この頃の馬鹿な自分が自尊心を全く持てず死にたがることは理解できる。が、それはなかった。
次に明確に自殺を考えたのは大学生だと思う。
大学生の時は自殺どうこうというより単純に躁鬱的な状態だった。
誰といても苦しかったし孤独だと感じた。
皆さんの自分に無関係な幸福を想像して勝手に不幸になった。
この時明確に覚えているのは「死にたい」のではなく「生きたい」と思えないのでこの生命活動をする肉体に生かされている状態を脱したい。だった。
私は当時から「鬱病」の存在を信じていない。
鬱病はめんどくさい気持ちや甘えだと思う。
誰しもに備わっていて、その大小がある。
悪ではない。
多くの反論があるのは知ってる。
癌という病気があるように、精神に疾患がある人間を精神病と呼ぶ。だから健常者とは異なり、「治療」の必要な「病」なのだと何度も聞かされるよ。
しかしね、私はやはり信じられない。
癌という病を疑うことのが容易だ。
病というのは社会において、言葉において定まっているルールで齟齬があるときに人間が分離させた要素であると思うからだ。
ゆっくりとしか歩けない人間はルールを守ることができないから病なのだ。
病を矯正することで一部の人間は治った、素晴らしいといわれる。
しかしこれは社会に適合するということなので「生きやすくなる」というメリットが確実にある。社会を優先するのなら治療されるべきなのだ。
しかし自分を中心におくならこの社会や言葉は異常なのだ。自分を阻害し傷つける。
私は後者で思考するので「病」は信じない。都合のいい時だけ利用する。
ここまで明快に考えるようになったのは大学後半だった。
それまでは自分がおかしいのではないかと悩み続けた。
鬱病を治療しなければ笑うことができないし、幸せになれないし、他人を愛せないし、愛してもらえないと思った。
だから精神科を探したんだけど、ネットに載ってる自殺や鬱病に纏わる文章はどれも共感できなかった。
何もないのに生きていたいと思う方が異常だと信じていたから。
私は見ず知らずの信用できない医者にどうしてこんなに辛いのか、自分の考えは理にかなっていることを正しく説明する必要があった。
だから私は文章にそれを何度もまとめたり、対談(対自分)したりもした。
結果、冷静に問題とその解決法を考えられるようになって目標が見つかって、死ぬ必要がなくなった。
今では命が何個あっても足りないなあと思う。
当時決めた生きる目的は、「気持ちいいこと全部体験してから死ぬ」ということ。
あらゆる快楽があるからこれは全然終わらない旅なのね。
承認欲求を満たす、他人の上に立つ気持ちよさ、他人に犬のように従う気持ちよさ、合法の国でやるマリファナやプールを貸し切って煽るシャンパン、特殊な状況の性行とか
全然叶えられないのでね。
ビビってる間に死にそうって感じ。
冒頭で書いたように自分は自殺を否定的に行うことは今はないと思っている。
他人の自殺にも否定的でない。
安楽死と似たもんだと思う。
そういう生命の在り方も素敵だ。一人が命かけて決めた選択に他人は何もできない。
ニュースで有名人の自殺が報道される。
もったいない、どうしてあの人が、まだ若いのに。勝手だなあと思う。